色々あって此処

焦って不安になるけれど、笑えることはあるものです

子供と英会話のはなし

我が家の2人の娘は英語を習っている。

長女は年少から始めて今は中学生

次女は今年3年生になったタイミングで始めた。

 

なぜ次女のスタートが遅れたかというと、

負けず嫌いで疎外感が大の苦手な性格で、

「わかんないから嫌!行かないもん!」と言い続けた為。

 

だけど、長女が中学生になるタイミングでお世話になった先生が辞め、スクールを変える為に何件か見学に行くと、あっさりと行く気になったようで今年から通うことになった。

なんだか「受け入れられた」感があったらしい。

長女の時は親の意思で入れたけど、次女は親の勧めと自らの意思という解釈でいる。

 

正直、英語を学ぶにあたってとってもスクール選びは難航した。

なぜなら習い事は本人に合っていないと何の意味もないと思うし、先生がネイティブであることや、通える日を考慮すると結構難しかった。札幌の端っこに住んでいるというのも理由の一つだ。

母国語ではない言語に触れるというのは、単純にその言語が分かったり話せたりするという事ではないと思う。

その国の文化や言い回し、考え方やコミュケーションを学ぶという事だ。

世の中には色んな人が居て、色んな考えや表現があるという事を感じ取るという事だ。

そしていつか何かに躓いた時に逃げ道があるように、目の前の世界だけが全てではないという選択肢の手助けになれば良いと思っている。

そのツールの一つとして私は英会話教室にお金を払う事にした。

 

会話中心にやってきた長女は今、中学英語に戸惑っている。

英検も受けてないし。

うそでしょ?それ解けないの!?塾行った方がいいんじゃない!?と思う事もある。

でも、フォニックスのおかげかすごい読めるし発音も良い所が面白い。

 

この選択は正解だったのかどうかは、彼女たちが大人になった時に聞いてみないとわからない。

ただ毎回面白おかしく教室での出来事を話してくれているうちは、続けたらいいんじゃないかなと思っている。

 

15歳の会話術

30年近く前の事。高校1年の時のはなし。

私の通った高校は私服だったのでみんな好きな服装をしていた。

ファッションが自己主張の一つだった子、全然興味のない子、どちらでもない子、色んな子がいて校内がカラフルだった。

田舎の中学出身で、ド定番デザインのセーラー服とダサいジャージがワードローブだった私にはけっこうな衝撃だ。

 

そりゃあ、お洒落したくもなる。

 

ある日私はオレンジのチェックのワンピースを着て髪をアップに結んでいた。

今思うと何とも田舎臭さ溢れるファッションだったけど、当時はイケてると思ってジーンズショップ、その名もウイリーウイリーで選んだ服だった。

そしてクラスメイトのIちゃんが、けっこうなテンションで

「えー、かわいいね~!」と褒めてくれた。

私はそれまで友達に褒められた時には謙遜するのがマナーだ思っていたので

「いやあ…そんなことないよぉ」と15歳なりの返事をした。

目立ち過ぎない事、自慢しない事が私が中学時代に身に着けたスキルだった。

 

私の後ろの席には、N君が居た。

N君はスクールカースト上位の男で

眩しいの事は「まぶい」って言うし、

入学してすぐ退学したイケメンの子とも友達だったし、

オザキのファンだし、ギターも上手いらしいし、

朝シャワーを浴びたら自分の口が臭くて仰天したとか笑いながら言うし、

なんていうか、ちょっと刺激強めな相手だった。

 

そしてその会話を聞いていたN君が後から私に言ってきた。

 

「おまえは自分でかわいくないと思っている服を着ているのか?」と。

ひいー!何?聞いてたの!?

 

「そういう時はありがとうって言うんだ」

 

そうN君に言われた時、とても恥ずかしくなった。

感謝をすれば良いだけだったのに、なんてめんどうな返事だったんだ。

 

考えたらとても普通の事なんだけど。

それ以来私は「褒められたらありがとう」と世渡りマニュアルを書き換えた。

N君には感謝している。

 

N君はその後も私のお気楽高校生活に現れては、度々スパイスをくれた。

最後は有言実行で、短期間の猛勉強ののち難しい大学に受かっていった。

 

高校時代に少しだけ付き合ったけど、

私が勉強に集中したいと言って別れた。

本当は、何でも見透かされている気がして居心地に耐えられなくなったせいだった。

 

卒業前には

「勉強したいといったお前は浪人して、俺は受かったぞ」と言われて

参りました、と思ったのを覚えている。

最近妙に思い出すのは、通信制の大学のレポートに挫折しそうだからだろう。

 

噂では、彼は好きだった音楽を諦めずに東京で音楽の仕事で成功しているらしい。

さすがである。

 

頑張ろう。

 

 

 

 

早期療育と家庭の役割

近年発達障害への理解が進み、ネット上でも沢山の情報にアクセスできる。

「早期療育」の重要性がここ最近取り上げられている。

早期発見・早期支援には賛成で、障害に対して適切な支援をしていく事で、その子や周りが様々な場面で対処法を運用して暮らしやすくすることができるだろう。

 

ただ、支援施設に

「言葉があまり出てこないんです」

「切り替えが出来ないんです」

「友達と楽しく遊んで欲しいんです」

といったたぐいの1~3歳未満の子の相談が増えているように感じる。

そして、そうですか、ではうちで預かりましょう。と子供だけを通所させる場合には疑問を感じる。

「最近めっきり言葉が増えて!うちではYoutubeばかりなので、感謝します!」と聞いた時にはガッカリした。

 

療育は家庭の協力なしには成しえない。

言葉の発達や対人関係の発達にはまず最小限のコミュニティである家庭での関りがものすごく重要である。

おむつを替える時には声をかけて、

ふとした時には歌を歌って、そんな一コマがあるのだろうか。

療育の有り方として、1~2歳の子には親子で通所してもらいたいと思うし、早期療育という言葉にはそのような意味も含まれていると思う。

いや、そもそもこの年で、このつまづきで「療育」という言葉を使うのはどうだろう?

こころの基地はおかあさん じゃないけど、あたたかい会話のある家庭生活の支援をしたほうが良いのではないだろうか、と思う例もある。

どうか、氾濫する情報に不必要に振り回されないでほしい。

 

話を聞いていると、未就学児の受給者証は比較的簡単に作れるのではないかと感じる。そうなってくると、保育園と差別化する必要はあるのだろうか。

本当に支援が必要な子に必要な支援が届かない場合があるのではないだろうか。

未就学の時には手帳を持っていたのに、問題が本当に表面化してくる小学生になった頃には支援の継続を止めてしまう場合もある。

それは、支援の成果なのか、それとも元々必要とされていなかったのか。

 

この業界はまだまだ過渡期なんだろうなあと思うが、あくまで福祉の視点は失いたくない。発達支援ビジネスの一員にはなりたくないなあと思うのである。

 

 

 

30代はくれてやる

次女が産まれていよいよワンオペ育児が辛くなっていた36歳の時

今週は帰れないと夫から連絡が来るたびに無気力になって

貴重な連休は夫の実家へ気遣い旅行でゲッソリして

子どもが熱を出すたびにため息が出て

ヘトヘトで子供と寝落ちする日々が続いていた頃

「一人の時間が欲しい」が口癖でした。

 

何度も夫婦で話し合うけど現状は変えられない。

家には私しかいられないし、夫は仕事であちこちにいなきゃならない。

ずっと平行線の日々が続いていたある時覚悟した。

ああそうか、今はそういう時なんだ。

 

ままよ、30代は家族にくれてやる!

 

そう思って何かあるたびに

「そうだ30代は家族にあげたんだった」と思い出すようにした。

何度も忘れて夫に喧嘩を売ったけど、頭の片隅にはなんとか覚悟を置いておいた。

 

そして40代を過ごす今、本当に自分の時間が戻って来ている。

マルチタスクはもともと出来ないし、夫婦で分業も我が家には現実的ではなかった。

時代には合っていないかもしれないけど、間違った考え方だったかもしれないけど、30代を家族に捧げると覚悟したことで家の事を一手に引き受けることが出来た。

 

でもそれは、ものすごーくわがままに20代を過ごしたから。

本当に自分の事しか考えていなかったし、やりたいことは全部した。

後悔が一つもなかったから。

 

今独身の人に言いたい。

やりたいことはなるべく早くした方が良い。

その時間を後で周りに使ってあげたら良い。

 

 

 

安藤さんがとっても可愛い

普段あまりテレビを見ないほうだ

暇つぶしにたまたまテレビをつけていたら安藤サクラさんが出ていた。

 

邦画も日本のドラマもほとんど見ないけど、

人気のある女優さんであることも芸能一家なことも知っている。

女優って感じするなあと思って眺めて、そして思った。

 

え..この人めっちゃ可愛い!!

 

笑顔に包容力があって溢れんばかりの優しさを感じた。

そして彼女はずーっと楽しそうに、でも大袈裟じゃなく笑っていた。

もう一回。

 

この人、めっちゃ可愛いよ。

 

演技派女優にありがちな妙な不思議さも近寄りがたそうな意識高い系美女オーラも感じなくて、ただただ魅力的な笑顔だった。

画面から人の芯の上質さを感じたのは初めてだった。

なるほど人気があるわけだ。

 

改めて思った。やっぱり人は笑ってた方が素敵だ。

 

片頭痛と眩しさと識字障害

初めての片頭痛は小学校3年生の時

バトンの発表会があったあの日

緊張とスポットライトと整髪料の匂いのせいだったんだと思う。

それと当時私はいじめっこのあの子のターゲットになっていて、毎日学校に行くのが苦痛だった。そのストレスも重なっていたんだろう。

 

帰りの車で手足が痺れて呂律が回らない、夢の中にいるような感覚。

母親に「死ぬかもしれない」と8歳にして訴えたのを覚えている。

家に帰ると嘔吐が止まらず、頭が正常に動いていなくてストーブの煙突でした火傷の跡は今でも太ももにある。

 

それから中学生まで、何度か半身の痺れと嘔吐のセットを繰り返し、

母は脳の病気を心配してMRIや脳波の検査を受けたけれど何にも見つからなかった。

37歳の時に再発してあまりに酷くて救急車で搬送された。

またもやMRIでは何も異常はなく、他の病院ではパニック発作と言われた。服薬しても良くならず、頭痛外来で片頭痛発作だったのだと分かった時には全てが繋がった気がした。

子供の時は頭が痛かった記憶はない。

とにかく自分がどうにかなってしまうのではないかと不安で、確かに、同時にパニック発作を起こしていたのかもしれない。子供の片頭痛は頭が痛いと訴えない場合も多いらしい。

 

今はもうそれが来たらすぐにわかる。

閃輝暗点に始まり、痛くなるのと反対側が痺れ始める。

顔、舌、手、足

手足が冷たくなっていく事に耐えて暫くして嘔吐と脈打つ頭痛が来る。

何度も繰り返すうちに恐怖感や不安感は薄れてきたけれど、

それでも自分が自分でないような感覚は怖いと感るので、

小学生にそれが来たら死の恐怖と感じても無理はないと思う。

今は処方された薬や体調管理でかなり頭痛との付き合いも慣れて、気のせいとしてきた程度の物も頭痛の一つだったんだと認める事が出来てきた。

 

日常生活を送れる日でも、匂いや光に過敏な方だと思う。

特に光と自分ついて最近分かって来た事がある。

子供の頃、私は本を読むのが猛烈に苦手だった。

字が消えたり踊ったりしてどこを読んでいるのかがほとんどわからなくなるので、指でなぞり声を出さないと読めなかったし、長い文章のものは手を出すことは無かった。

母は本を読め本を読めと言うけれど、言われれば言われる程に苦手意識は強くなった。

だけれども、それで学力が低かったかというとそうでもない。

自分なりに読める方法を見出して行けたし、他の部分で補完できていので高校も大学も行く事が出来た。大学は中退したけど。

 

今でも本を読むのは苦手で、縦書きが読みづらい。

特に晴れた日に真っ白な紙に印字されたものを読もうとすると訳が分からなくなる。一方で薄暗い部屋ではそこまで苦に感じたことは無いので、光に敏感な性質と関係があるのではないかと思っている。

なんていうか、本当に苦痛に感じるほどの眩しさで字が飛んでいるのだ。

パソコンやスマホも通常の光の設定ではとても辛い。

それがディスレクシアなのかと問われればわからないけれど、私の場合は何か関係があるんじゃないかと思う。

 

家庭用レーザー脱毛の光で片頭痛発作が来た時にはガッカリした。

ちゃんとサングラスしていたのに。そのあとの夫婦の時間を少なからず期待していたのに。

 

今私は通信制大学発達障害について学び、職場でも困りごとのある子達と接している。だけどそうカテゴライズされていない私のように、誰にも気づかれずに何かに苦手意識や苦痛を感じている人たちは数えきれない程いると思う。

誰しもが何かしら欠点があって当たり前なんだ。それは脳の動きの個性とでも捉えようか。

 

片頭痛は辛い。特に私は前兆が辛い。毎回このまま脳梗塞で逝くのではないかと思う程である。だけども、この過敏な身体と生きて行くしかないのだ。

もう42年も付き合ってきた。

大切なのは、自分を知り、方法を身に着けていく事で

否定する事ではないのだ。

 

 

晴れた日の夕方

休日に一日中晴れているのは良い。

 

夕飯の買い出しに車を走らせて赤信号で停まっていると、よちよち歩きの男の子をパパがヒョイッと抱えて横断歩道を渡る。

後ろから歩いてきた若い女の人の髪が、夕焼け前の光に照らされて黄色く透き通っていた。

 

肉じゃがの他に何を作ろうか。

あと数日分の食費のやりくり、今月は上手くいくかな。

安い魚があればそれも買おう。

 

晴れた日の夕方は本当に良い。

肉じゃがの材料を考えているだけなのに、食費の心配をしているのに、何だか幸せなのだ。

 

 


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